- ランベール邸、ローザン邸
- サン=ルイ=アン=リル教会
歴史と文化の街、花の都パリでは、紀元前3世紀頃に、ケルト人パリシイ族が今のシテ島に
住み始めたのが町の起源であり、名前の由来になっています。
パリの歴史を紐解くと前52年、ローマ軍に征服され、この地は、ルテティア(水に囲まれた住居)と
呼ばれ、河川交通の要衡として、栄え、セーヌ川左岸を中心に発展していきました。
ルティアが、パリに改名したのは、4世紀中頃で、6世初頭、フランク王クロヴィスがパリを
首都に定め、町を商業を中心に、左岸だけでなく、右岸も繁栄していきました。
その後、10~14世紀のカパ―朝時代に、さらなる発展し、国王は、パリに定住するようになり
12世紀頃、シテ島には、ゴシック建築の傑作ノートルダム寺院が建設がはじまります。
17世紀になると、フランス最後の王朝ブルボン王朝の絶頂期を迎えていたが、1789年のフランス革命が
勃発し、1792年、第一共和政が成立した。その後、ナポレオンが1804年、第一帝政が成立し、その時に
凱旋門やサント・マドレーヌ聖堂を建設させました。
その後、19世紀~20世紀には、エッフェル塔やシャイヨー宮などが建造され、現在の姿になりました。
そんな歴史のつまったパリのセーヌ河岸の歴史的建造物が多く、その多くが世界遺産に登録されています。
1991年 ユネスコ文化遺産に登録
パリは市街を流れるセーヌ河岸を中心に広がり、両岸には古代ローマ時代以後の建築物が連なっている。川中のシテ島はパリ発祥の地。サン・ルイ島の東端にかかるシュリ橋から、左岸にエッフェル塔をのぞむイエナ橋までが、世界遺産に登録されている。
ノートル-ダム大聖堂をはじめ、ルーブル宮殿、エリゼ宮、シャイヨー宮、アンバリッド廃兵院、フランス学士院、市役所、
公園などが長い年月をかけて建設された。
対象の建築物 (太文字は、私が訪れた建築物)
シテ島エリア セーヌ河の中州で現存するパリ最古の橋ポン・ヌフ島がセーヌ両岸と1607年に結ばれました。
セーヌ右岸エリア 政治経済の中心地
セーヌ川左岸エリア ソルボンヌ大学を中心にした学問・文化が盛んなエリア
サンルイ島エリア
住所:フランス 〒75008 Paris
18世紀半ばに作られたこの大広場は、最初の「ルイ15世紀広場」以来、歴史が変動するたびにその名所を変えてきました。
フランス革命が勃発すると「革命広場」とう名称になりました。この広場で、ルイ16世やマリー・アントワネットへの
ギロチン刑が行われており、ここでギロチンになった人は、1119人と言われています。
1795年のヴァンデミエールの反乱において、当時ポール・バラス軍司令官副官であったナポレオン・ボナパルトが
王党派を鎮圧後、総裁政府のもと、「コンコルド広場」と改称されました。
ナポレオンが失脚で、再び「ルイ16世広場」に変わり、1830年の7月革命でふたたび「コンコルド広場」と呼ばれるようになりました。
コンコルド広場には「川の噴水」「海の噴水」というふたつの大きな噴水があります。
どちらの噴水もフランスの建築家ジャック・イニャス・イトルフによって設計され、1840年に落成されました。
広場北側に位置するのが「川の噴水」と呼ばれ、川・泉の神ナーイアスが設置されています。
この噴水はローヌ川およびライン川が表現されています。
噴水を飾る像は、ブドウなどフランスで取れる作物を表現し、農業や産業を表しています。
広場南側にあるのが「海の噴水」と呼ばれ、海の神「トリトン」が設置されています。
この噴水はフランス本土を囲む地中海や大西洋を表現し、噴水の周囲の像はサンゴや魚介、真珠といった海の恵みを表しています。
Aline DasselによるPixabayからの画像
ちなみに、20年前位は、色が塗られていませんでした。
広場の中央のオベリスクは、古代エジプトのルクソール神殿にあったもので、1831年に、エジプトから
ルイ・フィリップに贈られました。
Jacques GAIMARDによるPixabayからの画像
下がルクソール神殿で、この対のオベリスクがコンコルド広場に設置されています。
このオベリスクの件は、下記のルクソール神殿に詳しく記載しております。
コンコルド広場は、シャンゼリゼ通りの出発地点になっており、パリを観光する時には、東西南北の通りを広場で
十字に交わらせるパリの要になっているので、ほとんど人が訪れる場所かなとも思います。
今では、のんびりした風景が広がっておりますが、フランス革命時には、ギロチンが設置されていたなんて想像できないですね。
歴史を感じながら散策してみてください。