人が集い、生活が続いてきた「ラビ・ハウズ」。
祈りと学問が都市の核となった「ポイ・カラーン」。
そして、統治と防衛を担った都市の起点「アルク城」。
この3つの役割が、
現在も同じ都市空間の中で分断されることなく存在している点に、
ブハラが「生きた世界遺産」と呼ばれる理由があります。
ブハラ旧市街は、
宗教都市でもあり、交易都市でもあり、生活の場でもあった都市です。
本記事ではその中でも、
人が集い、語らい、暮らしが続いてきた都市の中心空間
「ラビ・ハウズ周辺エリア」に焦点を当てて紹介します。
ブハラ旧市街は、
都市の役割ごとに大きく3つのエリアに分けて理解すると分かりやすくなります。
① ラビ・ハウズ周辺エリア
人が集い、語らい、生活が続いてきた都市の居間。
▶︎ ラビ・ハウズ完全ガイド
https://weekend-abroad-travelers.com/asia-oceania/uzbekistan/buxoro-sightseeing/labihouvuz/
② ポイ・カラーン周辺エリア
祈りと学問が都市の核となった宗教・教育の中心地
▶︎ ブハラの歴史地区(Historic Centre of Bukhara)完全ガイド
https://weekend-abroad-travelers.com/asia-oceania/uzbekistan/buxoro-sightseeing/historic-centre-of-bukhara/
③ アルク城〜サーマン朝遺構エリア
統治と防衛、都市国家ブハラの起点となった最古層エリア
▶︎ アルク城完全ガイド
https://weekend-abroad-travelers.com/asia-oceania/uzbekistan/buxoro-sightseeing/ark/
ブハラは、サマルカンドと同様に
シルクロードのオアシス都市として繁栄 → モンゴル軍の破壊 → 再生
という運命を辿った都市です。
しかし、ブハラにはサマルカンドとは決定的に異なる特徴があります。
それは、
9〜10世紀のサーマン朝時代の建造物が現存していること。
イスマイール・サマニ廟をはじめ、
イスラーム初期の建築様式を今に伝える貴重な遺構が残っています。
900年、ブハラはサーマン朝の首都となり、
イラン・イスラーム文化の中心地として黄金期を迎えました。
1127年、カラ・ハーン朝時代に建てられた
カラーン・ミナレット は、
奇跡的にチンギス・ハーンの破壊を免れた建造物として知られています。
16世紀にはウズベク人支配下で
ブハラ・ハン国の首都 となり、
町には数多くのメドレセ、交易所、キャラバンサライ、公衆浴場が整備されました。
19世紀にロシア帝国の支配下に入った後も、
旧市街の街並みは大きく改変されることなく保存され、
現在の世界遺産へと受け継がれています。
住所:QCFC+686, Divan-Beghi, Bukhara, Uzbekistan, Buxoro, ウズベキスタン
ラビ・ハウズは、
ブハラ旧市街に現存する 数少ない「ハウズ(貯水池)」のひとつ です。
かつてブハラには、飲料水・生活用水を確保するため、
町の各所に多数のハウズが造られていました。
しかし、衛生上の問題から多くは埋め立てられ、
現在まで原形をとどめているのは、ほぼこのラビ・ハウズのみ。
つまりここは、
中世イスラーム都市ブハラの生活インフラを、今に伝える貴重な空間 でもあります。
ラビ・ハウズが造られたのは、17世紀初頭。
ブハラ・ハン国の実力者
ナディール・ディヴァンベギ による都市整備の一環でした。
池の大きさは 約46m × 36m。
四隅には水汲みや洗濯のための石段が設けられ、
周囲には日差しを遮るための老木が植えられています。
この配置は偶然ではありません。
強い日差しの下でも人が集い、
水辺で自然と交流が生まれるよう、
都市生活の「居間」として設計された空間 だったのです。
ラビ・ハウズには、
ブハラらしい、少し皮肉の効いた逸話が残されています。
池を造る予定地の一角は、
ユダヤ人女性が所有する私有地でした。
彼女が売却を拒んだため、
ナディール・ディヴァンベギは彼女の家の地下に運河を通し、
意図的に水害を起こさせたと伝えられています。
結果、家は住めなくなり、
土地は手放されることになりました。
この逸話から、
ラビ・ハウズはしばしば
「力ずくのハウズ」 と呼ばれます。
権力と都市形成が密接に結びついていた、
中世中央アジアの現実を象徴するエピソードです。
住所:QCF9+6WG, Buxoro, Buxoro Viloyati, ウズベキスタン
| 時間 | 9:00~22:00 |
| 定休日 | 無休 |
| 料金 | 民俗舞踊ショー時のみ入場料が必要 |
ラビ・ハウズの西側、
池に面するように静かに建つのが
ナディール・ディヴァンベギ・ハナカ(Khanaka) です。
ハナカとは、
スーフィー(イスラム神秘主義)の修行者たちが集い、
祈り、瞑想し、教えを受けるための宗教施設。
モスクやメドレセとは異なり、
声高な説教ではなく、内面の静けさを重視する場 として機能してきました。
このハナカが建てられたのは 1620年。
ラビ・ハウズ一帯を整備した
ナディール・ディヴァンベギによる事業の一環です。
彼は、
池(生活)
メドレセ(学び)
ハナカ(信仰)
を一体として配置し、
宗教・教育・日常が分断されない都市空間 を意図的に作り上げました。
ナディール・ディヴァンベギ・ハナカは、
その中で 精神的な重心 を担う存在だったのです。
外観は、周囲のメドレセと比べると控えめ。
華美な装飾は少なく、
装飾の主役はプロポーションそのものです。
中央に大きなホールを持つ単純な構成は、
音と空気の流れを意識したもの。
内部は、
優れた音響効果を持つ空間 として知られ、
スーフィーの詠唱(ズィクル)や祈りの声が、
天井下で柔らかく反響するよう設計されています。
現在、内部は一般非公開ですが、
外観を前に立つだけでも、
この建物が「静けさのための建築」であることは伝わってきます。
住所:Bakhowuddin Nakshbandi Str., Buxoro, Buxoro Viloyati, ウズベキスタン
ラビ・ハウズの東側、
池を正面に見据える位置に建つのが
ナディール・ディヴァンベギ・メドレセ です。
1622年、
ハナカと同じく、
ナディール・ディヴァンベギによって建立されました。
しかしこの建物は、
ブハラに数多く残るメドレセの中でも、
明らかに異質な存在です。
この建物は、
当初メドレセとして建てられたものではありません。
もともとは、
隊商や商人のための
キャラバンサライ(宿泊・交易施設) として建設されました。
ところが完成間近、
当時のハンが建物を目にし、
「これは見事なメドレセだ」と称賛したと伝えられています。
ナディール・ディヴァンベギは、
その言葉を否定できず、
急遽用途を変更。
結果、
キャラバンサライとして設計された構造を持つ、
きわめて特異なメドレセ が誕生しました。
この逸話は、
正面ファサードを見れば一目で分かります。
入口上部には、
2羽の鳳凰(またはシムルグ)が
白鹿を掴み、太陽に向かって飛ぶ図柄。
さらに、
その太陽の中心には 人の顔 が描かれています。
偶像表現を避けるイスラム教義において、
これは明確な「禁忌」。
しかし、
キャラバンサライとして建設が進んでいたため、
装飾はすでに完成しており、
用途変更後もそのまま残されました。
この逸脱こそが、
ナディール・ディヴァンベギ・メドレセを
ブハラで唯一無二の存在にしています。
顔が印象的です。
内部構造もまた、
一般的なメドレセとは異なります。
中庭を囲む回廊と小部屋は、
学生の居室としても使われましたが、
元々は商人のための空間。
学問の場でありながら、
どこか 世俗的な空気 を残しているのが特徴です。
この建築は、
ブハラが単なる宗教都市ではなく、
交易都市として栄えた現実 を雄弁に物語っています。
現在、
ナディール・ディヴァンベギ・メドレセは
教育機関としての役割を終え、
夜になると、
民族舞踊や音楽のショーが行われる
観光と文化の舞台 となります。
中庭に灯りが入り、
音楽が響き始めると、
かつての学び舎は祝祭の空間へと姿を変えます。
これは、
用途を変えながら生き続けてきた
ブハラ建築のひとつの到達点とも言えるでしょう。
住所:Mekhtar Anbar Str. 90, 200100, Buxoro, Buxoro Viloyati, ウズベキスタン
| 時間 | 8:00~22:00 |
| 定休日 | 無休 |
「チョル・ミナル」とは、
ウズベク語で 「4本のミナレット」 を意味します。
ブハラ旧市街の路地を歩いていると、
突然現れる小さく愛らしい建築。
それが、このチョル・ミナルです。
壮麗なモスクや巨大なメドレセが並ぶブハラにおいて、
この建物は明らかに異質。
都市の周縁に、ひっそりと置かれた存在 です。
チョル・ミナルが建てられたのは 1807年。
建立者は、
トルクメニスタン出身の富豪
カリフ・ニヤズクル と伝えられています。
彼は、この地にメドレセを建立し、
その 門(ダルヴァザ) として
チョル・ミナルを建設しました。
しかし、
メドレセ本体は現在残っておらず、
この門だけが街角に取り残される形となりました。
国家や王朝の事業ではなく、
一人の富豪の信仰心と志によって建てられた点が、
この建築を特別なものにしています。
チョル・ミナルを特徴づけるのが、
左右対称に立つ 4本の小さな塔。
一般的にミナレットは、
礼拝を告げるための実用的な塔ですが、
この4本は実際には ミナレットとしての機能を持ちません。
それぞれの塔は、
装飾や形状が微妙に異なり、
といった象徴的意味が込められていると考えられています。
明確な答えが残されていない点も、
この建築をより魅力的にしています。
チョル・ミナルは、
全体としては非常にコンパクトな建物です。
しかし、
青いドーム、白い装飾、簡潔なフォルムは、
ブハラの建築美を凝縮したかのよう。
かつての写真を見ると、
塔の上には コウノトリの大きな巣 が載っていたことが分かります。
現在見られる巣はレプリカですが、
この建物が長く街の生活風景の一部だったことを物語っています。
チョル・ミナルは、
旧市街の中心から少し外れた場所にあります。
これは偶然ではなく、
メドレセが 郊外型の教育施設 として
計画されていた可能性を示しています。
喧騒から離れ、
学びと信仰に集中するための環境。
結果として、
本体を失った今も、
この場所には独特の静けさが残っています。
住所:Mekhtar Anbar Str. 55, 200118, Buxoro, Buxoro Viloyati, ウズベキスタン
| 時間 | 9:00~19:00 |
| 定休日 | 無休 |
| 料金 | 50,000スム |
ブハラ旧市街の路地を歩いていると、
周囲より一段低い場所に沈み込むように現れる建物。
それが マゴキ・アッタリ・モスク(Magoki Attari Mosque) です。
その姿は、
「モスクを見る」というより、
地層を覗き込む という感覚に近いかもしれません。
「マゴキ(Magoki)」とは、
ペルシャ語系の言葉で 「窪地」「穴の中」 を意味します。
その名の通り、
このモスクは現在の地表から
約5メートル掘り下げられた位置 に建っています。
これは、
建物が意図的に地下に造られたのではなく、
都市の発展とともに地表面が上昇し、
結果として埋もれていったため。
つまりこのモスクは、
ブハラという都市が積み重ねてきた時間そのもの に
包み込まれている建築なのです。
マゴキ・アッタリ・モスクが特別なのは、
その下層に存在していた宗教施設の歴史です。
この場所には、
6世紀ごろ、
仏教寺院が存在していたと考えられています。
その後、
ゾロアスター教の礼拝所、
香料商(アッタール)たちのバザールが置かれ、
アラブ支配の時代に、
現在のモスクとして再建されました。
一つの宗教が別の宗教を完全に消し去るのではなく、
重ね合わされるように受け継がれてきた場所。
それが、
マゴキ・アッタリ・モスクです。
壁面に残る装飾は、
時代ごとに重ねられた 三層構造 になっています。
これらが明確に混ざり合い、
単一の時代に回収されていない点が重要です。
ここでは、
「様式の純粋さ」よりも、
時間の連続性 がそのまま保存されています。
1936年、
ロシア人考古学者による発掘調査によって、
このモスクは本格的に姿を現しました。
それまでは、
半ば地中に埋もれ、
その価値も十分に認識されていなかったのです。
発掘後、
マゴキ・アッタリ・モスクは
ブハラ最古層の宗教建築 として注目されるようになりました。
現在、
モスク内部は 絨毯博物館 として利用されています。
宗教施設としての役割は終えていますが、
空間そのものは、
今も「聖域」としての気配を保っています。
モスクのすぐ脇には、
かつて使われていた 公衆浴場の遺構 も残されており、
この一帯が生活と信仰の境界だったことを伝えています。
モスクの横には、昔のお風呂跡の遺跡があります。
住所:QCF9+2F2, Mekhtar Anbar Str., Buxoro, Buxoro Viloyati, ウズベキスタン
ブハラ旧市街を南北に貫く主要通り。
その交差点ごとに現れる、
丸屋根で覆われた建築群——
それが タキ(Toki) です。
タキとは、
交差点型のドーム付きバザール。
単なる市場ではなく、
交易都市ブハラの経済を支えた
都市インフラそのもの でした。
現在見られるタキ群は、
主に 16世紀、
ブハラ・ハン国時代に整備されました。
この時代、ブハラは
中央アジア交易の要衝として再び繁栄を迎え、
街には専門商人が集積していきます。
そこで生まれたのが、
商品ごとに商人を集めるタキ という仕組みでした。
ブハラ旧市街に残る代表的なタキは、次の3つです。
宝石・貴金属を扱う商人のタキ。
規模が最も大きく、
交易都市ブハラの富を象徴する存在でした。
帽子・被り物を扱う商人のタキ。
遊牧文化と定住文化が交差する
中央アジアらしい専門分化が見られます。
両替商のタキ。
多様な貨幣が流通していたブハラにおいて、
ここは 金融の中枢 でした。
タキの最大の特徴は、
交差点全体を覆う ドーム構造 です。
この丸屋根は、
といった、
極めて実用的な機能 を果たしていました。
装飾は控えめながら、
都市機能に徹した建築である点が、
ブハラらしさを際立たせています。
重要なのは、
タキが単独の建物ではないという点。
南北に伸びる大通りの 交差点そのもの が、
市場として機能していました。
人は、
通り抜けながら買い、
買いながら交渉し、
交渉しながら情報を得る。
タキは、
移動と商取引が完全に一体化した空間 だったのです。
フッジャ・ナスレッディン(Nasreddin Hodja / Khoja Nasreddin)は、
トルコ系・ペルシャ系文化圏に広く伝わる
民話の主人公 です。
学者であり、
道化であり、
賢者であり、
時に愚者でもある——
彼は、
権力者や宗教家、役人を相手に、
機知と皮肉で真理を突く存在 として描かれます。
中央アジアからアナトリア、
バルカン半島に至るまで、
地域ごとに異なる逸話が語り継がれてきました。
フッジャ・ナスレッディンは、
特定の史実上の人物というより、
民衆の知恵を擬人化した存在 です。
しかしブハラは、
彼の物語が生まれ、育ち、広まる土壌を備えた都市でした。
宗教と学問の中心であり、
交易で外の世界とつながり、
同時に庶民の生活が濃密に存在する都市。
権威が強い場所ほど、
それを笑いに変える文化が生まれます。
ブハラにフッジャ・ナスレッディン像が置かれているのは、
偶然ではありません。
像のナスレッディンは、
ロバにまたがり、
片手を広げ、
もう一方の手には硬貨を持っています。
この姿は、
彼の有名な逸話のひとつ——
「知恵は金で買えないが、
金の価値は知恵が教える」
という逆説を象徴しているとも言われます。
人々はこの像に触れ、
写真を撮り、
時にロバの手綱に手を伸ばします。
それは、
英雄を崇拝する行為ではなく、
笑いを共有する行為 です。
モスクやメドレセでは、
信仰と学問が重んじられ、
タキでは、
交易と現実が支配していました。
そのすぐ隣で、
フッジャ・ナスレッディンは笑っています。
この配置が重要です。
ブハラという都市は、
厳粛さだけで成り立っていたのではありません。
人々は、
祈り、学び、働きながら、
同時に笑い、皮肉を交わし、
権威を相対化してきました。
ラビ・ハウズ周辺は、
ブハラ旧市街の中でも最も「生活の温度」が残るエリアです。
池のほとりでは人が集い、
祈りの場と学び舎が隣り合い、
交易の通路には笑いや皮肉が行き交う。
ここでは、
宗教・学問・経済・日常が
明確に区切られることなく、
同じ都市空間の中に重なって存在してきました。
だからこそ、
ラビ・ハウズは単なる観光名所ではなく、
**中世イスラーム都市ブハラの「現在形」**として機能し続けています。
もしブハラ旧市街を歩くなら、
まずはこのラビ・ハウズ周辺から歩いてみてください。
人々が集い、語らい、時間を過ごしてきた理由が、
きっと自然に理解できるはずです。