沖縄観光する人にとって目的は様々です。
世界屈指の透明度を誇る慶良間諸島のマリンブルーな海。
オリオンビール片手にカチャーシーを踊ったりと日本でもっとも海外を感じることができるエリアです。
沖縄は、古来よりアジア各国と交易が盛んであり、琉球王国という独立した国家として繁栄をしてきました。
その王国は、独特な文化を形成しており、そんな沖縄には、世界遺産がたくさんあります。
今回は、首里城公園エリアを中心にご紹介します。
2000年 ユネスコ文化遺産に登録
沖縄本島南部を中心に点在するグスクなどの琉球王国の史跡群から構成される世界遺産。
今帰仁城跡・座喜味城跡・勝連城跡・中城城跡・首里城跡・園比屋武御嶽石門・玉陵・識名園
・斎場御嶽から成ります。
住所:沖縄県那覇市首里金城町1丁目2番地
時間 | 9:00~17:30(入場券販売締め切り:17:00) |
定休日 | 毎年7月の第一水曜日とその翌日 |
入場料金 | 大人:400円・中人(高校生):300円・小人(小・中学生):160円 |
公式URL | 首里城 ‐ 琉球王国の栄華を物語る 世界遺産 首里城 (oki-park.jp) |
下記が正殿エリアの入場チケット
この御嶽は国王が各地を巡航する旅に出る際必ず拝礼した場所であり、また聞得大君が就任する時にまず最初に拝礼した、
いわば国家の聖地であり、御嶽の礼拝所でした。
1519年に創建されましたが、沖縄戦で一部が破壊され、1957年に復元されました。
首里城公園の中で、世界遺産に該当する2箇所でここと首里城正殿遺構になります。
扁額を掲げる中国の牌楼に似た形式の門です。
扁額の「守禮之邦」は、「琉球は、礼節を重んずる国である」という意味です。
琉球王国第二尚氏王朝4代目の尚清王(在位1527~1555)の時に建てられました。
またその頃は現在のような瓦葺きではなく板葺きであって、扁額は「待賢」でした。
後に「首里」の扁額が掲げられるようになり、その後6代尚永王(在位1573~1588)の時に「守禮之邦」の扁額が作られ
それからは、中国から冊封使が来ている間は「守禮之邦」の扁額を掲げ、それ以外の期間は「首里」の扁額を掲げるということとなった。しかし10代尚質王(在位1648~1668)の時には「守禮之邦」の扁額を常掲するようになり、これが現在に至っています。
「歓会(かんかい)」とは歓迎するという意味である。往時、首里城へは中国皇帝の使者「冊封使)」が招かれたが、
こうした人々を歓迎するという意味でこの名が付けられました。
瑞泉門は、門の手前にある「龍樋(りゅうひ)」と呼ばれるわき水にちなんで名付けられたました。
「龍樋」の龍の彫刻は、1523年に、中国からもたらされたもので、この龍の口から流れる水は、王宮の飲料水として使わていました。
また、この水は、冊封使の宿舎にも運ばれて提供されていたそうです。
「冊封七碑」とは、龍樋(りゅうひ)の周辺に設置されている七つの石碑のことで、中国皇帝の使者として琉球国王の即位を
宣言するために遣わされた歴代の「冊封使」たちは、龍樋の水の清らかさを讃え、漢詩を詠んだり題字を残しました。
現在ある七碑は拓本をもとに復元されたものです。
題字者:徐葆光
石碑の意味:泉の量・水質は、琉球第一の泉。
題字者:全魁
石碑の意味:山の高いところの穴から湧き出る石の乳である。
題字者:趙文楷
石碑の意味:東のはての日の出るところにある不可思議な泉。
題字者:斉鯤
石碑の意味:魚が跳ねるように水の勢いが極めて活発な泉である。
題字者:林鴻年
石碑の意味:泉の源は遠く流水が長い
題字者:高人鑑
石碑の意味:清らかな泉があたかも玉のように飛び散っている。
題字者:趙新
石碑の意味:霊妙の水脈から出る薫れり高い流れである。
門の上の櫓に水槽を設置し、水が漏れる量で時間を計ったといわれており、時刻を測定すると係の役人がここで太鼓を叩き、
それを聞いた別の役人が東のアザナと西のアザナおよび右掖門で同時に大鐘を打ち鳴らし、城内および城外に時刻を知らせたそうです。
漏刻門の正面に置かれている日時計。
水時計の補助的な道具として使われていました。
久慶門はかつて通用門として主に女性が使用したといわれています。
また、琉球国王が寺院を参詣したり、浦添から以北の地方へ外出する際にも使用されたそうです。
現在は、出口専用になっています。
扁額の「広福門」とは、「福を行き渡らす」という意味で、建物自体に門の機能があり、東側は戸籍を管理する「大与座」
西側には、寺や寺社を管理する「寺社座」がありました。
1458年に首里正殿に掛けられていたもの。
鐘には、「琉球王国は、南海の美しい国であり、朝鮮、中国、日本との間にあって、船を万国の架け橋とし、貿易によって栄える国である」と刻まれています。
首里城にある御嶽で、首里城内で最も格式の高い拝所と言われています。
「琉球開闢神話」によれば、神が造られた聖地であるとされています。
また、城内にはここを含めて「十嶽」と呼ばれる10ヶ所の礼拝所があったそうです。
正殿前広場の「御庭」へ続く最後の門。
3つの入口のうち中央の門は国王など限られた身分の高い人だけ通れる門でした。
閉門を告げる朝の儀式「御開門」を見ることができます。
首里城正殿の正面にあった大龍柱で、高さは約3.1メートル、重さは約1.5トンもあります。
火災の影響を受けながらも奇跡的に立っていたそうです。
正殿は、王の居住する場所です。3階建てとなっており、1階は下庫理(しちゃぐい)といい、王による政治や儀式の場です。
2階は大庫理(うふぐい)といい、王と親族、女官が儀式を行いました。3階は通気のための屋根裏部屋となっています。
1階と2階には、王の玉座である御差床(うさすか)があります。
さらに、2階には、清の康熙・雍正・乾隆帝が送った扁額が復元されて飾られています。
2階の御差床は国王の玉座としてさまざまな儀礼や祝宴などが行われたところである。
儀式の際には床の間に香炉、龍の蝋燭(ろうそく)台、金花、雪松などが置かれ、壁には孔子像の絵が掛けられていた。
壇の形式は寺院の須弥壇(しゅみだん)に似ており、側面の羽目板葡萄(ぶどう)と栗鼠(りす)の模様が彫刻されている。
高欄(こうらん)は正面に1対の金龍柱が立ち、その他の部材には黒漆(くろうるし)に沈金(ちんきん)が施されている。
部屋の上部には、かつて中国皇帝から贈られた御書(ぎょしょ)の扁額がいくつも掲げられていた。「中山世土」(ちゅうざんせいど)の扁額はその一つであり、古記録をもとに再現している。
標高約130mの城郭の西側に築かれた物見台です。
資材の搬入口として使用された門。
1494年に創建された沖縄における臨済宗の総本山で、第二尚氏王統歴代国王の菩提寺です。
「円鑑池」は1502年に造られた人工池で、首里城や円覚寺からの湧水・雨水が集まる仕組みになっています。
「弁財天堂」は航海安全を司る水の女神・弁財天を祀っていおり、建物は当初1502年に朝鮮から贈られた方冊蔵経を
納めるために建立されたが、1609年の薩摩侵入で破壊されたが、1629年に修復、このとき円覚寺にあった弁財天像を
安置したが、その後荒廃したため1685年に薩摩から新像を移したそうです。
首里城では、毎年11月頃に首里祭が行われ、そこでは、琉球王国最大の儀式である冊封儀式が執り行われます。
冊封とは、中国皇帝が周辺諸国に使者を派遣し、皇帝の名のもとに、その国の王を任命すること、またはその儀式ことを言います。
本来は、中国国内で皇后や親王などを任命する制度でしたが、それを周辺諸国へ拡大した関係が冊封体制と呼ばれています。
冊封は、琉球国王が崩御して1年の喪が明けた頃に、冊封の準備が始まり、琉球から使者が中国に派遣され
冊封の要請を行います。
これを受けた中国皇帝は、自ら使者となる正使・副使に任じて冊封の準備に入り、500名の人員で構成された
使者を中国の福州から舟で琉球に赴きました。
琉球に到着した一行は、那覇にある天使館と呼ばれた施設に半年ほど滞在しながら先代国王の霊を慰める
「論冊儀式」国王を任命する「冊封儀式」など行いました。
当時の儀礼は、形式的なことを繰り返し行うことに意味があったことから国王は何度も正殿に登ったり拝礼を繰り替えし行いました。
この冊封儀式は、1404年の武寧から始まり、1866年の尚泰まで続けれました。
当時の様子は、毎年、首里祭りで見ることができます。
中央の闕庭に中国皇帝の名代である正使・副使が立ち、奥に節や詔書・絹織物や御書が飾れます。
そして、琉球の次の国王に任命される世子が闕庭中央の香炉に香を捧げます。
中国皇帝からの贈り物として、数々の絹織物が国王と王妃に贈られます。
続いて、冊封使から国王へ中国皇帝自らが書いた御書が贈られます。
琉球国世子(時期国王)を新国王を認める調書や勅書を読み上げる場所で、宣読官という役人が中国語で読み上げます。
ここで、初めて世子が琉球国王に任命されます。
勅書は、再び闕庭に戻されます。
1800年の詔書・勅書には、下記が記されていました。
私(皇帝)は、天の時を得て、万邦を治めているが、琉球は、東の涯に位置しながらも皇帝の徳を仰いで恭順し、規則に従って貢物を納め、臣下としての礼を十分に尽くしている。今回、琉球から新たに世孫の尚温を琉球国王を継ぐことを要請してきている。そこで、正使に趙文楷、副使に李鼎元を選んで琉球へ派遣し、尚温を琉球国王として任命し、儀式を執り行わせる。
これからも国を挙げて、なお一層善く国を治め、忠誠を尽くすように、そこで、ここに詔を示し、皆に知らしめるものである。
国王が詔書・勅書を国の宝にしたいので頂きたいと冊封使に願い出ます。
正使に前国王が頂いた詔書・勅書を見せることで、琉球ではこうした慣習があることを了解していただき、詔書・勅書が伝授されます。
記録では、この後、正使・副使・国王が正殿に掲げられた歴代中国皇帝の扁学を拝見した後、北殿で小宴が開かれました。
住所:〒903-0815 沖縄県那覇市首里金城町1丁目3
時間 | 9:00~18:00 (入場:17:30) |
定休日 | 無休 |
入場料金 | 大人:300円 小人(中学生以下:150円) |
公式URL | 玉陵|那覇市公式ホームページ (city.naha.okinawa.jp) |
下記が、入場チケットです。
玉陵は、1501年、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、その後、第二尚氏王統の陵墓となりました。
墓室は三つに分かれ、中室は洗骨前の遺骸を安置する部屋となっています。
三角屋根の形をした「破風墓」と言われ、沖縄特有の墓の形式の一種で、沖縄で最初の破風墓は玉陵です。
創建当初の東室は洗骨後の王と王妃、西室には、墓前の庭の玉陵碑に記されている限られた家族が葬られました。
全体のつくりは、当時の板葺き屋根の宮殿を表した石造建造物になっています。墓域は2.442平方メートル。
この碑文は、1501年に建てられたもので、玉陵に葬られる人々を規定したもので、尚真王他8名が記載されています。
玉陵は、東室・中室・西室にわかれていてます。
玉陵は、3体のシーサーが守り神として設置されています。
墓参りに来た王様が休憩した場所です。
玉陵の展示室が地下1階にあります。
併設されている奉円館(ほうえんかん)の資料展示室には、玉陵の模型が設置されています。
歴代の王はこのような石厨子(骨壺)の中におさめられています。
沖縄のシンボルでもある、首里城は、残念ながら2019年10月31日に、正殿を含む9棟の建物が焼失してしまいました。
現在は、復興に向けて着々と工事は進んでいます。
焼失した正殿エリア以外では観光もできますので、是非、沖縄文化を満喫してください。