蘇州は、古くは、呉の都であり、呉第一の名勝の地と言われ、
宋代の詩人、蘇東坡が「蘇州に遊びて虎丘に遊ばずは遺憾なり」と詠み有名となった「虎丘」を紹介します。
虎丘
(The Tiger Hill)
住所:姑蘇区虎丘山門内8号
基本情報
*10人民元=168円相当
虎丘は、呉王、闔閭(こうりょ)の墓のある高さ36mの小高い丘にあります。
呉王闔閭(こうりょ)は、その死後、蘇州の海湧山という山に埋葬されましたが、埋葬後3日間
白い虎が現れ闔閭の墓を守ったとされていて、以後、海湧山という名が、虎丘の名に改名されたました。
そして、闔閭を語る上で欠かせない呉越戦争について少し記載します。
【呉越戦争】
6代王の闔閭(寿夢の孫)の時代、呉は強勢となり、名臣孫武・伍子胥を擁し当時の超大国楚の首都を奪い、
滅亡寸前まで追いつめた。
しかし新興の越王允常に攻め込まれ楚から撤退した。
これを恨んだ闔閭は允常の子で後を継いだ勾践と戦うも闔閭は重傷を負い、子の夫差に復讐を誓わせ没する。
夫差は伍子胥の補佐を受け、会稽にて勾践を滅亡寸前まで追い詰める。
勾践が謝罪してきたため勾践を許したが、勾践は呉に従うふりをして国力を蓄えていた。
夫差はそれに気付かず北へ勢力圏を広げ、また越の策にはまり伍子胥を誅殺し、中原に諸侯を集め会盟したが、
その時にすでに呉の首都は越の手に落ちていた。紀元前473年、呉は越により滅亡する。
この時、夫差は勾践に対し助命を願った。勾践は夫差に一度助けられていることを思い出し願いを受け入れようとしたが、
宰相の范蠡に「あの時、天により呉に越が授けられたのに夫差は受け取らなかった。ゆえに今呉は滅亡しようとしているのです。今、天により越に呉が授けられようとしているのです。何をつまらない情を起こしているのですか」と言われ、和議を蹴った。
それでも勾践は夫差を小島に流刑にして命だけは助けようとしたが、夫差はこれを断って自害し、呉は滅びた。
夫差は越に闔閭を殺された後、薪の上に寝て復讐心を忘れなかった。
勾践は夫差に負けた後、胆を嘗めて復讐の心を呼び起こし、部屋に入るたびに部下に「汝、会稽の恥を忘れたか」と
言わせて記憶を薄れさせないようにした。
この故事から臥薪嘗胆の言葉が生まれた。また、呉越の激しいライバル争いから呉越同舟の言葉が生まれた。
と前書きが長くなりましたが、「呉の中で第一の山」とされている虎丘は、蘇州のどこからでも頂上に立つ斜塔を見ることができます。
雲岩寺塔
雲岩寺塔、通称「虎丘塔」は959年に建設されたもので、高さは47.7mあり7層になります。
説明によれば既に3.95度北西側に傾いているおり、この八角形の塔は、「東洋の斜塔」と呼ばれています。
ちなみに、ピサの斜塔の傾きは、1990年~2001年の間に行われた工事により、3.99度に是正されていますが
以前は、5.5度も傾いていました。
Hui YuanによるPixabayからの画像
剣池
闔閭の遺体と3,000本の剣が副葬品として眠っているといわれる剣池。
名剣を手に入れるために、秦の始皇帝や三国志の呉の孫権がここを掘り起こしたそうですが、
結局、剣は1本も出てこなかったと言われています。
千人石
千人石の由来は二つあります。
- 呉王夫差がその父闔閭を埋葬するにあたって、3000の宝剣をはじめとして数々の財宝を埋蔵した際に、
その秘密を守るため埋葬に従事した作業者千人をこの石の上で殺害したと言われています。
- 近代の高僧、竺道生の講話を聴くために、この石の上で千人が座ったと言うもの。
私は、時間の関係上あまり回れませんでしたが、虎丘は、それ以外にも見どころは十分あります。
そして、虎丘を訪問する前に是非読んでほしいのが横山光輝の漫画「史記」です。
2巻目に、呉越戦争の模様や臥薪嘗胆のシーンなど乗っているので情景が浮かびますよ。
史記 全11巻セット (小学館文庫)
虎丘は、東洋の斜塔を目的で訪れる人も多いかと思いますが、他にも呉の歴史を感じることができるエピソードがたくさんありますので
ゆっくり散策してみてください。